宝蓮寺の歴史
【宝蓮寺の始まり】
一条山宝蓮寺は、本全上人により念仏道場の草庵として開山された浄土宗の寺院です。
浄土宗は鎌倉時代に法然上人によって開宗された大乗仏教の一派です。その考えは全ての人々を平等に救いたいという願いを「いのち」と「ひかり」の佛様(阿弥陀如来)の功徳と教えを拠り所にしています。
本全上人は、天明五年(1785年)に宝蓮寺のある長篠の地に長男として生まれ徳治と命名されました。上人は、資性温厚にして学を修めて二十歳に志を立て、捨世派 荒井山九品院(岡崎市)を開山建立された徳住上人の弟子となりました。そして、天保五年(1834年)本全上人五十歳の秋に念仏道場の私庵として宝蓮庵(現在の宝蓮寺)を建立しました。
上人は元治元年(1864年)九月七日(八十歳)に大往生されました。その後は、尼僧庵としては第六世まで続きましたが、それ以降は徳住上人開山の九品院(荒井山)と熱心な念仏行者の上人に守られ続いてきました。
【現在のお寺】
現在は、第九世住職として儀誉彰人がお預かりさせて頂いております。「一条」つまり「ひとすじ」は「ただ一つのことに心を傾けるさま」との意味です。開山の本全上人は、ただお念仏一つに心を傾け開山されたとお察しいたします。また、蓮の花は「泥中之蓮」と四字熟語や「蓮は泥より出でて泥に染まらず」とことわざにもあるように、私たちに「いくら汚れた環境に身を置いても、その汚れには染まらずに清く生きること」を教えてくれます。2500年前から伝わる「お釈迦様の教え(佛教)」に通ずるお念仏の教えと、開山上人のお志しを大切に「草庵念仏道場としてお念仏の実践」を続けていきたいと思います。
【荒井山 九品院】
「 寺号を「清浄山極楽寺」と称し、通称「荒井山」と呼ばれています。徳本上人の弟子「徳住上人」の開創になる宗内有数の捨世地で、修行道場として今も多くの僧侶を育成している。文政三年(一八二〇)徳住上人が三河化導の際、大樹寺四二世隆也より当地に常念仏道場の建立を請われたことによる。徳住上人は岩窟において一千日の間、単信口称一〇万遍、日礼三千の苦行により工事の無事と念仏弘通を祈願、満行後の同一一年に本堂が完成した。嘉永七年(一八五四)四世求道が善光寺堂を増築、中興。昭和五五年(一九八〇)本堂大修復。開基以来、毎日施餓鬼供養を行っており、また今なお肉食妻帯無用の伝統を守り続け、徳本上人が修行の際行っていた波念仏を今に伝える。本尊阿弥陀如来(伝行基作)や『徳本行者伝』など宝物も数多い。」
「新編浄土宗大辞典」より
【捨世派】
「 天文年間(一五三二-一五五五)の称念を祖とし、寺院の俗化や僧侶の形骸化に慨嘆し、法然上人の念仏思想に立ち返ろうと静閑な地に道場を設け、厳粛な清規しんぎのもとで専修念仏一行に励み、その興隆につとめた僧侶達のこと。捨世とは「出家中の遁世にして真の出家なるを捨世とは名付たるなり」(『称念上人行状記』浄全一七・六七八上)とあるように「出家中の遁世」ということが本来の意味であるが、浄土宗においては法然が叡山で黒谷に遁世したことに由来する。つまり、念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達を後に総称として捨世派と呼ぶようになった。首唱者である称念は世の名利を嫌忌して、天智庵や専称庵などの独自の草庵を設け、念仏の道場とし、ついには法然御廟の畔に一心院を開いた。後にこの一心院は捨世地の本山とされる。江戸期に入るとその活動が盛んになり、
・古知谷こちだに流(京都阿弥陀寺)弾誓たんぜい、澄禅
・獅子谷ししがたに流(京都法然院)忍澂
・無能流(福島無能寺)無能
・関通流(愛知円成寺、京都転法輪寺)関通
・大日比流(山口西円寺)法岸、法洲ほうじゅう、法道
・厳島流(広島光明院)以八、学信
・中山流(愛知貞照院)穏冏おんげい
・徳本流(東京一行院、愛知九品院)徳本、徳住、徳因、本察 などが捨世主義者として挙げられるが、彼らの捨世の姿は隠遁を中心とする者や、学問を中心とする者、念仏を中心とする者など様々であるため、形式上、いくつかの流れに区別される。しかし、その根本には本願念仏口称一行があって、その上での分化に他ならない。また隠遁生活は専修念仏のためであり、それ故、隠遁生活の中でも一定の清規を設け、厳粛な風儀を保つ者が多かった。このため同時期に起こった興律派(浄土律)との関係は深い。また、捨世派そのものの規律や規定は定められていないが、単なる隠遁念仏者を指すのではない。捨世派僧の多くは宗祖法然の精神を念仏を通して民衆に教化した功績も大きい。自らの隠遁念仏に終始するのみならず、民衆への教化も怠らなかったことは捨世主義者達の大きな特徴と言える。」
【徳本上人(徳本行者)】
「 宝暦八年(一七五八)-文政元年(一八一八)一〇月六日。名蓮社号誉称阿。紀伊国日高郡志賀久志の人。俗姓は田伏氏、幼名は三之丞。江戸後期の代表的な捨世派念仏聖。
四歳の時、隣家の小児の死を見て無常を観じ、九歳で出家を望むも許されず、一〇歳を過ぎる頃から念珠を袖に入れて日課念仏を修し、一六歳のとき、三宝に誓って朝夕二時の勤行式を定め励声念仏を行ず。
天明四年(一七八四)二七歳、母の許しを得て財部村往生寺の大円について得度し、翌年春には大滝川月正寺にて三〇日間の苦行念仏を修す。次いで落合谷、千津川と草庵を移し、言語を絶する苦修練行を続けた。
自行と共に化他に向かうのは寛政九年(一七九七)頃からで、同年秋より河内・摂津を行脚して日課念仏を授与し、赤塚山の草庵では参詣者に名号を授与して念仏を勧めた。のち紀州徳川家の招請で須ヶ谷の草庵に戻るも、享和元年(一八〇一)には摂津の勝尾寺の松林庵に居し、同三年一〇月、京都獅子谷法然院にてそれまでの長髪長爪の異相を改め江戸へ赴く。一二月には小石川伝通院智厳から宗戒両脈を相承。
その後も各地の教化は続き、文化九年(一八一二)紀州徳川家の請いに応じて国内を化益し、和佐山に庵を賜る。同一一年増上寺典海の招請を受け関東に下向。江戸でも評判は高く、以後、同年九月から同一四年一二月に至るまで、伊豆を皮切りに関東諸国、信濃・飛驒・加賀・越後の各地を巡教遊化した。
生涯は一所不住の捨世念仏に徹したもので、終焉の地は彼のために建立された小石川一行院。法話は『一枚起請文』のみに依拠し、教化方法は勧誡・日課誓約・剃度作法・名号授与からなり、各地に独特の名号および名号石(塔)、信者による徳本講が伝えられる。教化の記録等は戸松啓真編『徳本行者全集』一~五巻に収載される。(浄土宗大辞典より)」